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開催趣旨

開催趣旨


浦辺鎮太郎(1909~91年)は、岡山県児島郡粒江村(現・倉敷市粒江)に生まれ、岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1930年に京都帝国大学工学部建築学科に入学する。浦辺が建築を学び始めたのは、1929年の世界大恐慌が日本へと波及した昭和恐慌の只中で、日本が満州事変(1931年)から日中戦争(1937年)、そして太平洋戦争(1941年)へと突き進む苛酷な時代だった。それでも、当時の建築学科は、関西建築界の重鎮だった武田五一(1872~1938年)を中心に、藤井厚二(1888~1938年)や森田慶一(1895~1983年)、坂静雄(1896~1989年)ら錚々たる教員が揃い、自由闊達な雰囲気があったという。

そんな中で、浦辺は、建築雑誌を通して、遠くヨーロッパで始まっていた最前線の近代建築運動に憧れを抱き、ドイツのP.ベーレンスや、彼に師事し、造形学校バウハウスを創設したW.グロピウスの仕事に共感し、フランスのル・コルビュジエにも傾倒していく。だが、同級生の西山卯三(1911~94年)らとマルクス主義の影響を受けた共産党シンパの活動で捕まり、半年間の停学処分を受けてしまう。そこで、浦辺は、上京し、F.L.ライト(1867~1959年)の高弟で、甲子園ホテル(現・武庫川女子大学/1930年)を完成させたばかりの遠藤新(1889~1951年)に学ぶ機会を得る。そして、彼の下で、ライトの作風をオランダの小都市ヒルバーサムで風土化し、その町づくりを生涯の仕事とした建築技師のW.M.デュドック(1884~1974年)の生き方に惹かれ、自らの進むべき道を見つける。

こうして、1934年に大学を卒業した浦辺は、「倉敷のデュドック」になるべく、倉敷絹織(現・クラレ)に入社し、営繕技師として働き始める。そこには、中学と六高の同窓で、創業者の父・大原孫三郎の跡継ぎとして同じ年に倉敷絹織の正社員となった大原総一郎(1909~68年)との運命的な出会いがあった。また、営繕課の上司には、孫三郎の依頼を受けて陸軍省から倉敷絹織の転じ、大原美術館(1930年)の設計を手がけた薬師寺主計(1884~1965年)という優れた先人がいた。以後、浦辺は、大原総一郎とともに、倉敷をドイツの古都ローテンブルクのような歴史を大切に守り育てる都市にするべく、設計活動を始めるのである。

1962年には、大原の指示もあって、営繕部の仕事を引き継ぎながらも、さらに広く一般の設計とプレファブ住宅の研究開発を行う組織として倉敷建築研究所を設立し、大原会長の下で自ら代表取締役となる。そして、1964年には、独立して倉敷建築事務所を開設し、一人の建築家として歩み始める。

浦辺の半世紀に及ぶ設計活動で手がけた建築は、戦後の主要なものに限っても、総数約280点を数える。その中で倉敷に建つ建築が2割近くを占めており、浦辺が大原と共に倉敷の風土と伝統に根ざすことによって、自らの方法を練り上げていったことがわかる。戦後に活躍した数多くの日本の建築家の中で、浦辺の仕事が特筆されるのは、初期の代表作である大原美術館分館(1961年)や倉敷国際ホテル(1963年)に象徴されるように、倉敷の伝統的な町並みと調和する近代建築の在り方を追求する中から、他の建築家が成し得なかったクラフト(手仕事)とインダストリー(工業化)を融合させる新しい境地を切り拓いた点にある。また、続く倉敷アイビースクエア(1974年)では、赤レンガ造の紡績工場の宿泊施設への転用という先駆的な試みを成し遂げ、1970年代初頭の行き詰っていた近代建築の潮流に、歴史との対話の大切さを自覚させた。

さらに、倉敷市民会館(1972年)や倉敷中央病院(1975~81年)、倉敷市庁舎(1980年)などに代表されるように、近代建築が切り捨ててきた装飾や屋根、素材の色や質感などを統合して、華やかさと豊饒さを併せ持つ建築をつくり上げる。そして、横浜で手がけた大佛次郎記念館(1978年)や横浜開港資料館(1981年)、神奈川近代文学館(1984年)では、より自在なデザインによって、同時代のポスト・モダニズム建築とは一線を画した独自の世界を切り拓いたのである。以上のような仕事に対しては、倉敷国際ホテルと倉敷アイビースクエアに対する2度にわたる日本建築学会作品賞、「地域に根ざした町づくりと優秀な建築の創造活動による建築界への貢献」による日本建築学会大賞、建築年鑑賞、毎日芸術賞などを多数受賞している。

また、倉敷アイビースクエアと同じ年に、瀬戸内海歴史民俗資料館(1973年)によって日本建築学会作品賞を受賞したことが機縁となり、設計者の香川県建築課長の山本忠司(1923~1998年)と出会い、そこに、愛媛県八幡浜市の営繕技師として日土小学校(1956・58年)などを手がけていた松村正恒(1913~93年)も加わる。彼ら3人を結びつけたのは、公に仕える営繕技師としての矜持だったに違いない。そして、「建築家は地方で何をしたか」という視点で、地域の建築のあり方を問い続けていた建築評論家の神代雄一郎(1922~2000年)も加わって、1979年に、共同で「瀬戸内海建築憲章」を起草する。そこには、行き過ぎた地域開発や自然破壊への自省が共有され、瀬戸内海が「日本人のための文化の母体であったこと」を確認し、「地域の文明を守り」、「建築を通じて人類に貢献する」と謳われて、文明論的な視点が提示されていたのである。

生誕110周年にあたる2019年に開催予定の、没後初となる本展覧会では、浦辺鎮太郎が倉敷の営繕技師として活動を始めた初期の時代から、晩年に至るまでの軌跡を紹介する。折しも、明治維新から150年、広く日本の近代とは何だったのかが問われ始めている。同時に、人口縮小社会という未知の時代の入口に立つ現在だからこそ、地域に根ざし、伝統や風土と対話しながら、近代建築のあり方を問い続けた浦辺鎮太郎の仕事は、これからの建築や町づくりへの大きな手がかりを与えてくれるに違いない。そして、この展覧会が、より良き生活環境を次世代へと伝えるひとつの起点となることを目標としたい。

実行委員長  松隈 洋